刺激

同期の構造設計の人と、1つ下の構造の研究室に属する者と飲む。同期と後輩がもともと知り合いだということを知り、珍しいところで人間関係がつながる。もともとアラップ・ジャパンの会社説明会で出会ったという二人であり、後輩はアラップに入ることを目論んでいる。熱意のある二人。
もちろん、構造についての専門的な議論も起こって、何とか反応しようと努力する。固有名詞や話題の建築などについての議論は何とか反応できるが。技術的な話などになると(CFTとかSRCとか。言葉の表層はわかるけれど)なかなかついていけない。、今の建築意匠屋への意見や、計画系・意匠系の研究についても意見や議論が出る。サラリーマン金太郎を読めと強く進められた。
MOK-UPの打ち合わせをしていても感じることだけれど、構造の議論、エンジニアリングの議論はもの作りに対して具体的だしクリティカルである。目指す所を明確にすることと、それを実現する技術の裏付けのフル活用だからだろう。研究についても同じことが言えて、「構造の研究は社会の要求にダイレクトに繋がる」と言っていたのはもっともで、建物はより壊れない方がいいのである。さらに数字という客観性を持つからこそ、貢献と蓄積が可能なのだろうなと思う。
では、自分の立場の価値は何なのか。計画の分野の抽象度と不明確さはどうしようもないことである。場所の使い方や空間の価値について、100人が同じ意見を持つことは無い。計画(意匠も)はそのことを、そして議論の抽象度を受け入れることから始めないといけない。大切なのは、いかに理想の未来に繋げるかである。抽象度を保ったままで、受け入れたうえで、実際の建築に空間に場所に理論を活かすのか。人が使うこと、触れることを想定できることの活路はある。
理論が寄与することなんて少なそうだけれどという覚悟を持って進む。