空間と方法の境界をめぐる対話

服部滋樹さんと藤村龍至さんの対話。
お二人共の活動からかなり勉強させていただいてる。こともあり京都へ足を運んだ。


・風土と道具、民族学的アプローチ
服部さん、そしてgrafのデザインに民族学的観点があることを初めて聞いて妙に納得。graf結成当初切り開いたマーケットがメインストリームになってしまったこと。その危機感から生まれた新しいモノがTROPEということに納得。服部さんの言う70%の隙間っていうのは、プリミティブな感覚から起る行動が多様に起る可能性のことなんだろうなと解釈。
都市のアイコンを読み替えるという文脈も価値の多様化と読み取った。


・作品と方法論から原則へ
藤村さんプレゼのタイトルはなんと「近作について」
戸建て住宅、集合住宅、オフィスビルの竣工写真スライドを見せながら、言葉で設計手法を補完していくことで、理論と実践が繋がって感じられた。
プランを見せずに写真だけを見せる方法はまさに全体像を把握せずに、部分(要素)の積み重ねが全体になるということに連動している。(と書いていて思った、質問すればよかった。)
共通原則として、1、ジェネリック 2、コンステクチュアル 3、インテグラルを提示。これらを扱うことで新しい自然を作りだすと表明。当たり前のことと思いがちだけど、方法論が間違っていれば多様な要素は統合されない。皆がやってることじゃないかと思ってしまうのは、つもりになっているだけだと自分に言い聞かせる。
ここで意識すべきなのは、過程であり方法論である。


・コミュニケーションスペースとコミュニティ 敷居論
コミュニケーションを議題に敷居論の可能性について語られた。共同体意識の空間化手法の一つのモデルと捉えてよいだろうか。
そういった個人個人間といった比較的小さな方法論の可能性は語られたが、広く画一的にコミュニケーションを伝搬させるような方法をデザインすることは幻想であるとする議論もあった。
水面に波紋が広がるように、デザイン・空間によって一つの波紋がとても多くの人の価値観を変えるような状態が理想であるということを頭の中に持っていたせいか、この議論は刺激的だった。これについてはもっと考えたい。


コミュニティとは何なのか、どういったコミュニティが理想なのか。かつてあったコミュニティはその形が求められなくなったため希薄化し、変化することが必要となっている。議論の中では両手でつながるコミュニティ(旧)と片手でつながるコミュニティ(新)として比較されていた。
「コミュニティ」という言葉には気をつけたい。仲良し、ではない。ここでは、ある意識を共有しようとする集団といった感じで理解したい。そうした時に共通意識をどのように作り、保つのか。
それは、右ストレート一発では勝てないならジャブを重ねるボクシングみたいなものなのかもしれない。大技を狙わず、足技を重ねる柔道みたいなものかもしれない。
積み重ねるための方法を模索する必要があるのかもしれない。藤村氏の超線形設計プロセス論からその可能性をまなべるんじゃないかと思いを巡らせながら京都を後にした。