仮囲い

stmd2009-05-29



前の日曜日になるが、囲いがされた大阪中郵便局を初めて見た。
私が一番の魅力であると思っている、足下の開放感は完全に隠れていた。電気が付いていたのは1階の警備員室(?)のみで、抜け殻のように感じた。そこに人がいない、この建物はもう使われていないということを突きつけられた気がした。何とも寂しいものである。感情論でしかないが、使われていないと知ったとたんにその建物が寂しそうに見えてくる。
「近代建築は近代という時代に作られた耐久消費財である」という考えを聞いたことがある。果たしてそうであろうか、建てられた時点ではあるいはそうだったのかもしれない。暗黙の了解として建物は失われるということはあっただろう。しかし、建物の所有者の事情が変わり、建物に求められることが変わった。(要求の大部分は商業的な理由であろう)そういった理由が建物を活かそうとすることを勝ってしまうという状況はいかがなものかと思う。あれだけユニバーサルな空間を残し、活かすことができないのだとしたら、建築をつくるモチベーションをどう持てばいいのだろうか。


大阪中央郵便局の隣でどんどんと出来ていく、大阪駅の鉄骨は何とも象徴的である。